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2005年 12月23日
私は那須にある「雷音スタジオ」にいた。
ここは「日本のルディ・ヴァン・ゲルダー」こと神成芳彦氏のスタジオ。
神成芳彦
ジャズ界では誰もが認めるJazz録音の第一人者であり、数え切れない位の日本ジャズ・アルバムの大名作を世に出した天才エンジニアである。
何故、私がこのスタジオに…
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秋本くんからの電話を受けた日、徹夜で悩んだ結果。
『よし!デイケアセンターにCDを贈ろう!それも、クリスマス曲だけを収録したCDを!』
クリスマス曲のアレンジ、録音に参加してくれるメンバー、レコーディング・スタジオの確保、それに掛かる莫大な経費 etc…
これについての記憶がまったく無い。
虚言でも何でも無く、どういう風に参加メンバーを説得したのか、神成さんにどう了承を貰えたのか、どこから経費が出たのか、選曲から曲のアレンジまでに関しても、どうしても思い出せない。
憶測で申し訳ないが、先ず「私の主治医である福島稔先生」に話をして、一週間で完璧なCDを作りたいと申し出た…と思う。
「デイケア慰問演奏」をしていたことすら知らなかった先生も何がなんやらサッパリ分からなかっただろう。
多分...
神成さんの説得は福島先生に任せ、ピアノの近藤哥久子さん、ベースの青柳能明さんの説得には私が直接お願いに行って…
これも憶測の粋を出ないが「嘘八百を並べ立て」
『クリスマスシーズンですし何かみんなで気軽に記念に録音とかしてみません?』
『世に出すワケでもないし、いつもライブだけじゃ、ほら音とか録ってみましょーよー』みたいな
青柳さんは直ぐにOKでしたが、ピアノの近藤さんには細心の注意を払って話した…と思う。
当時、近藤さんは70歳に達していたが、那須移住後もテナーの尾田悟さん、ドラムの海野さん他、第一線のジャズ界での仕事もしていたし、若い頃はドラムの渡辺文男さんやカリスマ・ボーカリスト上野尊子さんとの長年のキャリアを持っている実力派。
センスの良い格好良さと音楽に対する真摯な姿勢には尊敬していたし、私にとっては大先輩のお姉さんという感じだった。
『今津くんは私の気づかない私自身を引き出してくれるのよ、品の悪いコテコテのブルージーな曲って大嫌いだったんだけど、私の中にもブルースフィーリングがあったのね!』
だからかも知れないが、近藤さんには嘘偽りなく「デイケア慰問演奏」の話しや「クリスマスCD制作」の意味を真剣に話した。
『ふーん、5年もやってたの、ただの生意気なヤツだと思ってたけど、良いこともしてたのね』
『ひどいなぁー ただの生意気なヤツとか』
『なに言ってるの、最高の褒め言葉じゃないの、まだまだ子供ね』
『じゃ、今度は一緒にデイケア演奏に行きましょうか!』
『バカ!私が行ったら慰問になんないじゃないの!私いくつだと思ってんの!』
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12月16日から始めた曲アレンジは20日には終わっていた。
直ぐに各パートごとに清書して、メンバーにFAXで送り「明日、近藤宅でリハーサルします」と書き添えた。
翌17日のリハーサルは納得のいくものではなかった。
そりゃそうだろう。
近藤さん以外は、みなさんプロではないし、譜面に書かれた細かい部分にまで対応できるはずなど無理に決まってる。
然しながら
『皆さん、申し訳ありませんが、23日まで死ぬ気で練習してください』
そう言った時、なにやら嫌な空気感を感じた。
(アカン!このまま帰したら俺の言葉なんか吹っ飛んでしまう)
『あのぅ、近藤さん、リハ出来ますか?時間とか大丈夫ですか?』
『時間?那須の山奥で時間なんて気にする?』
『では、ちょっと休憩してから』
『なに言ってんだか、今すぐ曲をやりましょーよ!』
近藤さんには、俺の気持ちを推知(すいち)で読まれていた。
後で近藤さんから聞いた話だが。
『あの時、今津さんが気を使って話したあとに皆を帰してたら、私が承知しなかったわ、音楽の場に集めておいて変な気を使ってちゃダメよ、だいたい今津さんのいつもの強引さや押しの強さがなかったわよね、私はね今津くんの火傷しそうな熱さが気に入ってるのよ!』
そのあと
『だから、普段は近づかないようにしてるでしょ!だって火傷するもん!』
笑いながら話す近藤さんは、やっぱり「格好イイ大人の女」だった。
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再びリハーサル風景に。
時計の針は10時を過ぎていたが、そのまま曲のテーマだけを何回も繰り返すことになる。
私がカッチーンと来たら、近藤さんが優しく話し出す。
近藤さんがキレて来たら、私が明るく話す。
12時を回った頃だった。
『俺、ここのタイミングがズレてると思うんだけど』
ドラムの福島先生が突然、自分のプレイに不満を漏らした。
先ず、喜んだのは近藤さんだった。
『先生、そこはね、ここを軽く叩いて少しだけ待つのよ、ぜんぶ埋めようとしないでイイのよ、あんな若造が書いた譜面なんてたかが知れているでしょーに、音を減らして感覚だけで叩いてみて』
『そうなのか、今津!』
『はい!真面目にそのまま叩いたら先生の良さが出えへんのですわ、エエですか、今から譜面なしでやりますから好きなように叩いてみてください』
『よし、分かった』
『但し3人の表情だけを見ながら、先生は笑顔を絶やさずに!』
『なんだ、反対に難しいな』
『バカに成り切るだけですから、大丈夫!』
切っ掛けというものは恐ろしい。
みるみるうちに先生のドラミングに色が付きだし、音に表情が出てきた。
青柳さんもいつの間にか譜面に書かれてないアイデアを弾き出す。
夕方の6時から始めたリハーサル、夜中の3時を過ぎた頃。
みんなが音楽の楽園で楽しみだしたように見えた。
反対にバテてきたのは私と近藤さん。
先生と青柳さんはやる気充分になっていたが
『そろそろ終わりましょうか、9時間も経ってるし、あとは自主練習で』
『なんだよ、もう終わるのか?まだやれるぜ!』
『わたしの家はコンビニじゃないのよ!9時間?冗談じゃないわ、さぁさぁ帰って、帰って』
近藤さんは二人を追い出したあと、『今津くん、ちょっと』と手招きして私の耳元に手を当て囁いてくれた。
『やったね!』
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2005年12月23日
午後3時から始まったレコーディングは信じられないほど順調に進んだ。
5時までに録り終える約束で次々にワンテイクずつ録音していった。
勿論、プレイバックを聴く時間など無い。
すべては神成さんの『OKでーす!』だけ。
確か、一曲だけ2テイク録った覚えはあるが何の曲か記憶にない。
「雷音スタジオ」でのレコーディング
思い付いてから7日間
今、改めて考えると偶然に偶然が重なったから出来たこと、なんて口が裂けても言えない。
関わって戴いた全員の人たちの善意、誠意、「無償の愛」
なんだか、何を言っても当て嵌まらないので…
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神成さんにお願いしたこと
『どうしても、今日中にCD音源にして欲しいんです!』
無茶苦茶な話ではあるが、ここまで来たら明日のイブに「クリスマスCD」を送りたい。
ただ、その一心だけだ。
『出来る限りやってみましょう!』
レコーディングの後の神成さんに大変な仕事を押し付けた形になった。
録音したものをミキシング(それぞれの楽器別にバランス調整、エフェクト調整)を終えてからマスタリング(ミキシング後のクロスフェード作業、最終的な曲のレベルや音質、音圧調整、曲間の編集)
普通なら何日かでする仕事だ。
それを数時間で完成させることなど不可能だと言っていい。
私と福島先生は、CD完成を願いカフェで待つことにした。
7時間も経った午前1時
私と福島先生の待つカフェのドアが開き、神成さんが興奮気味に
『出来上がりました!』
早々にCDを受け取り自宅へ車を走らせながら神成さんのことを思った。
(天才…)
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2005年 12月24日
徹夜慣れしてしまったのか、CDに曲名、参加メンバー、そして梱包を終えた頃には朝の日差しがカーテン越しに入ってきていた。
朝一番で送ったCDは昼頃に着いた。
『今津さん!到着しました!』
『そうか、良かった…』
それから、感謝の言葉が嵐のように受話器から聞こえてきていたが、何ひとつ覚えていない。
とにかく、何もかも忘れて眠りたかった。
そして、冷え切ったベッドに倒れ込むなり
(終わった)
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つづく